当社は、薩摩藩主島津氏が勧請した東照宮で、現在照国神社のある鹿児島市照国町にあっ
た。
「三国名勝図会」によれば、東照宮の勧請は島津氏十九代光久のときと伝えられる。光久は
「東照宮の余沢は四海に普く万民太平の化に浴し、その一揆乱反正の功績莫大なるを感称」し
て城北に東照宮を勧請し、また秀忠以降の将軍の神主殿を建立して南泉院をその別当としたと
いう。光久は寛永十五年に家督を継ぎ、貞享四年(1687)に致仕しているから、その間のこと
であろう。
その後、二十一代吉貴のとき「これ神徳を表し、恩徳を謝するに足らず」と、東照宮の移遷造
替を計画し、宝永五年(1708)に公弁法親王に願い出て、翌年御神体を請い受けている。社殿
は同七年四月に竣工し、十六日に遷座した。別当南泉院のほか支坊三か院があり、寺領五百
石余を寄進されていた。四月十七日の祭礼には、諏方大宮司が音楽を奏し、天台の僧侶を集め
て法事を行なったという。
「三国名勝図会」の南泉院の挿絵によれば、東照宮は本堂の左側(東北)にあり、本殿(三間
×二間、入母屋造)・拝殿(三間×二間、一間の向拝と千鳥破風が付く)・唐門・瑞垣・隋身門・
番所などからなり、東照宮の右脇には、開山堂・宝庫なども描かれている。本堂の右側には、徳
川将軍累代の位牌を祀る御位牌殿や護摩堂もあり、「殿宇壮麗」と記された東照宮の様子が伺
い知れる。
東照宮は幕末まで存続したが、明治初年の神仏分離によって廃却せられたらしい。現在の照
国神社の社地が、旧東照宮と別当南泉院の跡地である。
(家康公と全国の東照宮 高藤晴俊 著より) |