赤城神社写真
社 名 赤城神社 相殿
鎮座地 群馬県勢多郡富士見村赤城山4-2
由  緒 ・ 沿  革
 大洞赤城神社の名で親しまれている赤城山の赤城神社、主祭神に赤城大神−赤城山と湖の神様−をおまつりする神社です。
 清らかな頂きの湖から流れ出る水は生物に命を与え、田畑に稔りをもたらします。また、雄壮なる山なみは力強さを、四季おりおりの景色は、優しさと美しさをあらわし、古来より人々の守護神としてまつられてきたのです。
 また、崇神天皇の御世−大和時代−に、皇子豊城入彦命が、上毛野国にいらしたおり、平和と安全を祈り、大国主命をおまつりしたと伝えられております。
 大同元年(八〇六年)赤城神社は元の地より、大沼南の水辺に御遷宮(お宮を移し、改築)されます。この年号に因み、大沼南端の土地を大洞となづけたのです。
 古来、広く人々の厚い信仰をあつめ、「続日本紀」「三大実録」「延喜式」を始め「神道集」他上毛野国の諸誌に載せられ、正一位に叙せられております。
 神仏習合期には、赤城大明神をおまつりする神社として、その御神徳を広めてまいりました。特に江戸時代に至り、相殿に徳川家康公をおまつりし将軍家を始め大名の信仰厚く、三代将軍家光公は寛永一九年に、前年火災で焼失した社殿の再建を命じられました。また、歴代厩橋(うまやばし−前橋)城主は、自ら大祭に御参列され、五穀豊穣と無病息災の祈願をされております。
 厩橋城内を始め各地に分社が勧請されています。また、赤城山登山口八ヶ所に設けられた鳥居は、当時の村人たちにより奉納されたものです。
 この頃、神祗伯白川家より「上毛野国総社大洞赤城神社」、吉田家より「正一位赤城大神宮」の額が奉納されています。これは当時の赤城神社への信仰のほどを物語るものです。
 明治二〇〜四三年の間に、小沼端の豊受神社、小鳥ヶ島の厳島神社、黒桧山頂高於神神社を始め、県内二十二社を各社の請願により合併。
 昭和一九年、三夜沢の赤城神社で起きた神社の社格昇格運動は、(大洞)赤城山・三夜沢・ニの宮三社の赤城神社を一社とみなし、国幣中社に昇格するという内示を賜わりましたが、実現をみずに終戦をむかえました。
 寛永一九年(一六四ニ年)徳川家光公の命により再建された社殿は、三ニ〇年以上の厳しい赤城山の気候により荒廃したため昭和四五年に、小鳥ヶ島に移し再建されました。(由緒書より)

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